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家康の後継者選びとは

事業承継に成功した、数少ない戦国武将の代名詞としてあげられるのが徳川家康です。264年もの政権を継ないだ武将は歴史が物語るようにたしかに偉大です。でも私はどうも徳川家康っていう武将は好きになれないんですね。なんか、信長と秀吉の裏側で美味いとこだけ持っていくというか、本性が見えないといつも思ってました。

それもそのはず、長く続いた徳川政権で批判するような読み物や資料の出版は許される時代ではなかったのでしょう。だから良いところだけが浮き彫りにされて神格化されたイメージが出来上がってしまったからだと思います。

そんな中でもクールなイメージの家康の人間味溢れる一面をのぞかせるエピソードがあるので紹介します。

1603年、家康は征夷大将軍として江戸幕府を開きましたが、2年後には将軍職を2代目に継承しています。さて、その人選ですが、これが事業承継を学ぶのにいいケーススタディーを残してくれています。事業承継に成功した武将とされる家康ですが、いやいや、それには緻密な戦略と先見性があったと思わせるところが後継者選びにあらわれています。

家康の後継者選びは緻密だった

まず、後継者として期待していた長男・信康は正妻の築山殿ともども家康が自ら自刃に追い込むという辛い過去があるのです。(諸説ありますが、敵陣に内通していた築山殿に加担した信康を生かしておいては徳川家の面目が果たせないとの理由で二人とも殺したという説が最も説得力があります。まさに泣いて馬謖を斬るです!)

次に、次男の秀康。側近の本多正信は武勇と智略を兼ね備えた次男の秀康を後継者に推挙しました。そして三男の秀忠。もう一人の側近大久保忠隣(ただちか)は平定後の時代に必要なのはであると、誠実な人柄の秀忠を推挙しました。

東海一の弓取と言われた家康の跡継ぎとして推挙された三男の秀忠はちょっと物足りない。おそらく武将としては大人しくて、温厚な性格だったのでしょう。でも、それが人心をとらえる面から、その人柄がよしとされました。当時の家康と家臣の「言うことをちゃんと聞く子」であれば大丈夫の見方であったのかもしれません。

結局、家康は秀忠を後継者に選びました。ある生物学者の説によると、3人以上の子供がいれば、親から見たとき、「可愛い子」、「嫌いな子」、「どうでもよい子」に分かれるといいます。家康にとって長男・信康は可愛い子、次男・秀康は嫌いな子、三男・秀忠は「どうでもよい子」だったのではないでしょうか。では、なぜ三男の秀忠が後継者に選ばれたのか。

後継者選びに必要な素質は

安心できること

品性高きこと

まじめに経営すること

などがあげられていますが、この時代背景を考えると、この中の最も重要な「安心できる」素質、つまり間違っても親父が敷いた路線を大きく変えないだろうといった雰囲気があったのではないでしょうか。この当時、まだまだ家康は隠居するには早い。家康自身が舵取りもできる。そして家臣や古参たちの言うこともよく聞く素直な子が必要だったのです。

平定直後の時代にはこのような三男・秀忠が後継者に最適だったのでしょう。もしこれが武勇で猛進するタイプの信康や秀康だと幕府の運営方針で揉めまくっていたでしょう。

    出典:世襲について(歴史・国家編) 童門冬二監修 日本実業出版社

親父が元気なうちは言うことを聞け?

いつの時代も親父が元気なうちは「言うこと聞いとけ」と言うことか。平定直後は新しい国家を築くのに親子や古参と揉めてる場合ではなかった。そんな余裕はなかった。鎖国して外国からの侵入を防ぎ、守って、創っていくことが急務だった。それには協調性があって、言うことをよく聞く温厚な人柄が最適だった。

今も大変な世の中だ。会社を守って、創っていくことが急務だ。言うことをよく聞かなくても良いと思うが、強調ではなく協調していく必要はいつの時代も同じである。親父が過半数の株を持って居座っている間は、揉めず焦らず、虎視眈々とその日が来るまで準備を進めるのが賢い後継者の選択か。

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