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北条家にみる二代目の責任

どの世界にも世襲はあリます。親から子へ、連綿と伝統や文化、精神まで引き継がれ、やがてそれが家業として、権限と責任を持つといった感じになってはじめて世襲と言えるのでしょう。

世襲は2代目が重要

世襲の成功の鍵はいつの時代も二代目が重要な役目を果たすのではないでしょうか。歴史的に見ても、何代か続く家は、二代目がしっかり三代目に継ないでいる。アホの三代目が会社を潰すとはよく言ったことだけど、引き継ぐ二代目にも問題あったのでは?と勘ぐってしまいます。二代目の徳川秀忠は影は薄かったが、時代背景にうまく迎合した二代目だと以前拙ブログで紹介しました。ここでは戦国大名北条氏を例にあげてみます。

小田原北条氏の見事なバトンタッチ

北条氏は相模の小田原城を本拠にしていたので、小田原北条氏とも呼ばれ、鎌倉時代の執権を世襲した北条氏と区別するため、のちの後北条氏とも呼ばれています。北条早雲を初代として、五代およそ100年にわたって関東に覇権をもった家です。

初代北条早雲がゼロから出発し、一代で伊豆・相模の戦国大名となり、三代目の氏康のときに関東8州の範囲をおさめました。二代目の氏網の存在はやや薄く感じられますが、三代目の氏康の父が実は偉大で、その後の五代に渡る世襲が成就したとも言えます。

二代目氏網が果たした役割とはどのようなものかというと、父であり初代早雲と二代目の自分のやって来たこと、やろうとしたことを三代目を継ぐ氏康にきちんと伝えたことです。氏網は天文10年(1541年)に逝去しますが、その死の少し前、三代目氏康に長文の遺言状をしたためています。氏網が二代目として父早雲から引き継いだ教訓の伝授だったのです。

氏綱が三代目に残した遺言がすごい

五箇条からなる遺言状の第四条には、

「亡父入道殿は、小身より天性の福人と世間に申し候。さこそ天道の冥加にてこれあるべく候へども、第一は倹約を守り、華麗を好みたまわざる故也」

 

父、早雲は幼少より恵まれた環境に育ったにせよ、倹約励行を忘れなかった。これが国政運営の基本であると伝えています。

次に第五条では、

「手際なる合戦にて、おびただしき勝利を得て後、驕の心出来し、敵を侮り、あるいは不行儀なる事必ずある事也。慎むべし、慎むべし。かくの如く候て滅亡の家、古より多し」

 

合戦で勝利すると驕りの気持ちから、油断したり、行儀のよくない行動をするのものだ。このようにして滅亡する家は昔から多くある。気をつけなさい。

氏網は初代、二代で築いてきた領国経営のノウハウと、幾多の戦いをくぐり抜ける中で得てきた生き方の知恵を三代目に伝授したわけで、これは何も一通の遺言状だけではなく、日常の親子の触れ合いの中でも伝えられていたものと思われる。遺言状は日ごろ伝授してきた事の再確認という位置付けだったのでしょう。
このようにして北条氏は二代目氏網から三代目氏康への的確なバトンタッチを経ることで、厳しい戦国の世を見事に世襲を継ないできたといえます。

出典:世襲について 歴史国家編 童門冬二監修 日本実業出版社

私思うのですが、当たり前のこと過ぎてわざわざ五箇条にしたためる事か!?って思われるかもしれませんが、あえて明文化して伝授したところに系譜の重みと愛情を感じます。

なかなかできないことだと思います。初代早雲も二代目氏網も時の合戦で失敗の経験はあったのでしょう。驕り高ぶって痛い目を見他のだと思います。でなければ遺言書の第5条のような事は書けないでしょう。うまくいっている時は注意しないといけないと言う矜持は戦国の時代も現代も同じである。

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