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武田信玄の事業承継がやばい

父親を会社から追放して、その挙句、会社を取られた元有名経営者は誰かと問われたら、ビジネスマンなら即座に答えることができるでしょう。なにも嫌味を言ってるわけではなく、そんな例は世の中にはごまんとあって、あの甲斐の国(山梨)戦国武将の武田信玄も父親を追放した武将の一人なのです。

父と子の確執

事業承継に関して、「父と子」の宿命ともいえる確執はなぜ起こるのか。父親は、わが子に後継を託したいと考えるようになると、将来のリーダーとして相応しいのか自分の尺度で息子を見るようになる。その尺度は、あくまでも父親自身の実績であり、経験であり価値観です。そのため息子が自分の思いと違っていたり、まだ力が弱かったり、そのことに不安を持ちつつ、なんとか力がつくように指導しようとする。これは親心であり愛情です。

しかし、素直に子どもが従うとは限りません。これが息子にとっては「ウザい」となり、しだいに父と子の関係がギクシャクしてくる。しかも、それが一時的な感情の縺れならいいのですが、ゆっくりじわりじわり深いものになってきます。息子が力をつけてくれば、父親の意見はますますうるさいものに感じられ、「早く実権(自社株など)を譲れば良いのに」と思うようになる。

一方、父親はそんな息子に対して、感情的になり、意地になって実権を渡さなくなる傾向があります。なぜなら力をつけてきた息子に実権を渡してしまうと今度は自分が切られることを恐れるからです。

経営方針をめぐって、世代感覚の違う父と子が対立する。父親の時代と現代は違うのですからギャップが出てきて意見の対立があっても不思議ではありませんし、むしろ対立するほうが健全だと考えます。しかし、厄介なのはお互いのプライドや同じ血という観点から見ても「似た者同士」なのです。どちらも、自分の考え方が経営を安定させ、発展させるものだと考えて、お互いが譲らない。確執はますます高じてくるのです。

父親、信虎を追放した武田信玄

甲斐の戦国武将、武田信玄も運営方針を巡る確執から、父親と対立し、さらに後年は、後継となる息子とも対立しています。
信玄の父の信虎は、他国へ進出して支配することが甲斐の統治運営を安定させることだとして、しきりに軍兵を他国に送りました。そのためにかかるコストや人的負担を強いられる家臣や領民は疲れ果て、モチベーションも落ちていました。これに危機感を抱いた21歳の信玄は民心をまとめるには父から実権を奪うしかないと考え、父親である信虎の追放を決意しました。それに武田家臣団は団結して、国内を安定させることを優先しようとする信玄を支持したのでした。

さらに息子、義信を自害に追い込む武田信玄

さらに、武田軍では今度は信玄が自分の後継者である息子の義信を追放したばかりか、自害を命じるにまで至っています。この信玄・義信父子の対立もやはり運営方針をめぐる対立でした。

信玄は領地である甲斐から信濃、関東一帯を安定したものにするためには、尾張の織田信長、三河の徳川家康と友好関係を結ぶことが必要との考えに対し、息子の信義は、信玄の方針に真っ向から反対しました。信義の妻が今川の出身ということもあり、駿河の今川氏真との同盟を守るべきと主張。この方針をめぐる対立は、武田軍の組織を二分する事態に発展し、組織の安定を優先した信玄は身を切る思いで、わが子義信に自害を命じたのでした。

このように父子といえども、子どもが力をつけてくればくるほど、その意見や立場はないがしろにできないものとなり、それが決定的に対立し、組織の破綻に結びつくことも少なくないのです。

世襲について 日本実業出版社より抜粋

思うところ

親心という愛情が疑心暗鬼へと移り、いっぽう息子はというと「力や実績」が付いてきたのは自分の実力と思い込んでしまいます。不器用な親父と勘違い息子によくありがちな話です。(私もそうだったのですが。。)

これを解決するには、ケースバイケースですが、やはり息子が折れるのが双方にとって最善とされる打ち方なんじゃないかと。あとは軍師としての母親を味方につけたほうが勝ちですね。事業承継の行方を握る「妻として母としての立場」についてはまたの機会に書きたいと思います。

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