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東電控訴で考えた

2022.07.29

経営者

やはりそう来るか。

東電旧経営陣の控訴にこれからの日本の経営のあり方が示されると注視してます。まず、ここで考えたいのは旧経営陣の過失責任と株主代表訴訟について。

株主は有限責任

13兆円なんて払えるわけないだろう!ここではあくまでも会社(東電)が賠償するのではなく、旧経営陣(個人)が会社に損害を与えたとして賠償するのです。そもそも株主は有限責任。出資した以上の責任は負わないとされています。にも関わらず、13兆3210億円という冗談みたいな金額にはリアリティすら感じません。国は本気で賠償を求めてますかと。ただ計算式の合計だけでモノ言ってませんかと。

日本の経営のあり方を問う

そして過失責任の有無についてですが、第一審ではこの事故は防げることができたと結論付けました。だから経営陣には、安全に関する対策を怠った責任がある。だから善管注意義務違反という判断のもと賠償せよという判決でした。非常用発電機の場所は適切だったのか、過去の津波に関する報告は活かされたのか、当時の津波対策は十分なものだったのか。 これらが高裁で再び争われることになります。 おそらく、高裁でも終わらないでしょう。 最高裁までいくとなると、最も恐れるのは最高裁で結審するまで10年くらいかかるということです。そうすると被告も原告も生存している可能性は低い。逆転勝訴はあったとしても喜ぶのはせいぜい旧経営陣の遺族ていどでしょう。行く末の結果はわかりませんが、国民が納得できる決着をつけてほしいと思います。これは東電株主の正義や被災者意識だけではなく、今後の会社経営のあり方について多くの関心が寄せられるはずです。

責任の追及は正義か

今回の東電や不祥事続きのメガバンクで共通するのは、雇われ社長・依存型役員です。期間も責任も限定で、創業社長のようには権限を持っておらず、報酬もそんなに貰ってはいません。しかし、彼らはサラリーマンの頂点に行った人たちです。その彼らに報酬ではとても払い切れない様な賠償を負わせたり、トカゲの尻尾切りのように切り捨てたりするのは、果たして正義なのか。これがまかり通ればサラリーマンや世間の大多数の労働者は上を目指して頑張ろうなんて思わないでしょう。いい加減に仕事したもん勝ちみたいなモラル総崩れの社会になりそうです。 かと言って、その企業が甚大な災害を引き起こした時、誰も責任を取らなくてもいいような社会でいいのか。それにリスクだらけの起業なんて誰がするかと思うようになる。

民間企業の限界

そもそも論で語ると、原発のような莫大な利害が生じる組織自体、民間経営の限界ではないか。そこに持ってきて電力の自由化だ。そりゃ利益追及を願うがあまり、利権構造が自然発生的に作られて、その結果、中核となる経営陣にアホみたいな責任が押し付けられ、利権に群がったその他大勢のヤカラは我先に蜘蛛の子を散らして逃げていく。花見酒でお互いが「どうも、どうも」と言い合い悦に入るのは勝手だけど、もとの一升瓶は誰が持ってきたんですか。選択のできない消費者、文句が言えない納税者からふんだんに金を巻き上げ、それを仲間内だけで分け合っている。やはり国営に戻す時期がそろそろこの辺で来ていないか、と独り言ちる。

資本主義の終焉と民主主義

繰り返しますが、この裁判の勝敗によって訴えを起こした原告(株主)たちに直接的な利益はありません。しかし、第一審で勝った事実だけ捉えても、ここまでの道のりは想像に絶する苦労と葛藤があったと思われます。なにしろ東京電力という大組織と対峙するわけですからその覚悟たるや尋常ではないです。そこまでして様々なものを犠牲にしてまで戦う意義はなんなのでしょうか。私は国民であり株主という権利を主張するための戦いだと思っています。しかし、権利は与えられるものではないし、民主主義は簡単に手に入るものではありません。目指すものを得るためには、しんどくても一人一人が立ち上がって声にしなければいけません。今回の裁判を見て資本主義の終焉と民主主義の築き方を同時に学んだ気がしました。

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